2013年6月 のアーカイブ

三宝と言う教示

2013年6月22日 土曜日

置かれている状況・状態により物事の本質を見る形や角度で理解や認識をしてしまう事が多々あります。判断や決断と言う重要時に於いては情報の収集・分析・方法等に於いて片寄りがないか、目的に則しているか、実態はどうなのか、と言った事柄が求められます。

例えば円筒型のものを見るにあたって真上から見れば円に見えます。真横から見れば四角(長方形)に見えます。斜め上から見れば円筒型に見えます。つまり見る視点で円に見えたり四角に見えたり円筒に見えたります。物事には「複眼思考」つまり二つ以上の視点に立って考えなさいと言う事であります。

仏教では物事の行いや考えに「三宝」と言う教示があります。「三宝」すなわち「仏・法・僧」を解釈すると仏教と言う真理(実態)に於いて方向性あるいは思考する態度、行いに対する姿勢と言う事が理解されてくるのです。

仏とは自分が仏となり切る思考。

法とは自分を仏と思い込む思考。

僧とは自分を仏と共に歩む思考。

と言う態度。姿勢と考える事が出来ます。

この「仏・法・僧」が何故「三宝」と言う三つの宝なのかと言いますと、人生の生きる上にとって人間の心の中に「仏の存在」をこの態度あるいは姿勢で臨む視点と言う尺度(心構え)を以って対応すると、苦境を乗り越えて新しい境地へと心を開く事が出来るのです。

心を仏と自覚して「自信・信念」を持って行動すれば如何なる困難も乗り越える事が出来るのです。

心を仏と一体化し「無心・無欲」となって行動すれば不可能を可能にして願望成就へと進展します。

心を仏と二人三脚で「配慮し感謝して」努力すれば苦難苦労も半減し喜びは倍化して来ます。

心次第と言う事は正に「仏」と言う存在への認識をこの三つの尺度(三宝)で心得て行動することであり、自らの心の中に仏を自覚し、そして仏なるが故に無心無欲で行動し、相手の立場に立って共に共同歩調を取って人生街道をしっかりと歩んでいく事が大切な基礎であると言う事であります。

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自然と共存共栄

2013年6月12日 水曜日

気学の教示に示される「天の道は人の道である」と言い、自然界で教示される天の五つに通じます。また人間には五欲と言って食欲・物資欲・性欲・権力欲・生命欲があり、その欲を満たす為にこの世に誕生したとも言えます。

しかし東洋人と西洋人とに於いて基本的な考え方に違いがあります。

西洋人は五感(視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚)を中心に事物を判断し体系化しますが、東洋人は自然界の目に見えない五感以前の「気」のはたらきを基調としています。

この「気」と言う言葉は西洋の辞書には見受けられません。西洋の文明は科学の発展進歩に大いに貢献したが、物質主義・合理主義の行き過ぎが、逆に人類破局へと追い込む危機を発生させました。

宗教・信仰も生きるための支柱が宗教対立を生じ、今でも争い西洋に於いては一神教として世界を支配し、21世紀に入ってもキリスト教・イスラム教等の国々で紛争や戦争や動乱等を繰り返し続けています。

日本に於いては自然界を神として、大自然と共に歩むと言う神道観が古代から発生し、中国からの仏教・儒教・道教との自然観と共に活かした共存共栄の道が教示されて来て大自然と人間社会が一体となり共に反映し合あう宗教観でありました。

しかし太平洋戦争で敗戦となり占領軍による撤廃した家族制度の崩壊策と便宜的に神(自然界と共に歩む)が宗教扱いされてから混同され、大宇宙の精神、大自然と共に動き報恩感謝の行いに忠実であった日本の歴史。文化・伝統が忘却に至って来ておりました。

ここに来て(平成の現在)昭和の再来ブームや仏像や寺院・仏閣が静かなムードを起こしています。

「衣・食・足りて礼節を知る」この礼節文化が残っていた時代が再考され西洋思考の自由主義競争社会の厳しいストレス社会の中で、日本の自然と共に共栄して来た昭和の時代へ、温もりと癒しを求める人たちが如実に増大して来て新たなる再生の機運も発生している状況です。

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信仰について

2013年6月2日 日曜日

気学によって調べますと、一代で財を成し名誉を得た人の二代目が,親のそれを維持出来ずに継続することが出来ない例が,数多く見受けることが出来ます。

人間に取っての成功というものは,どこまでを指して成功というのでしょうか

気学を実践し吉相の家を造っても,家族全員に良い家など造れないのです。ただ凶現象が家族に顕現しない家相ということになるのです。永続を果たすものは,物質的にいくら用いても限度があるのです。

永続を果たせるのは「無形」のもとして残せるもの即ち「心の伝導」以外ないのであります。また気学そのものも自然界の法則を説き明かす教えであります。

信仰の道も気学の道も同じ道であり,天の変わらぬ精神を理論の根底にしています。宗教つまり宗(宇宙)の教えを手本として実践していくのが信仰の道であり、自然界(宇宙)の法則に則って実践して行くのが気学の道であります。

相違する点とは信仰は己の心の中に神仏を持ち、己の行動をその神仏に委ねて生活実践するのが信仰の道であり、目的意識や結果等を考えずに行動するのに対して、気学は少しでも多く自然界より恩恵に俗そうという目的意識を持っている点かと思います。

ですから気学の場合、教える指導を誤ると狂信的になります。これは信仰にも,いえますが信仰の道でも、気学の道でも狂信的になってはいけません。物事には節度というものがあり、自分ひとりで世の中は成立しているのではなく,ひとりひとりが家族となり、家族が集まって社会というものを作りあげているのです。

この社会は「輪廻」といって大きな流れの中の一時代です。その流れの中で,自分の生きている時代さえよければ子孫の世はどうなってもよいとは絶対いえません。信仰の道にしても誠の信仰とは,神仏を自分と対峙させるのではなく,自分の心に神仏を持ち生活の中で生かしていくのが誠の信仰者であり、ただお題目や唱経を人より数多く唱えたところで、それは信仰者とは申せないのです

つまり神仏を尊ぶ敬信心者なのです。敬信心は三歳の小児にも出来ますが、信仰は三歳の小児にはできません。

宗教心とは不変なる心、不変なる精神をいい、その精神の根本は太陽の慈悲の精神にあります。他の万物に恩恵を与えて見返りを考えぬ精神これが宗教心の基本であり宗教家の精神であります。その宗教の心の手本として実践して行くのが信仰の道なのです。

それだけに真の信仰者は「己に厳しく人には寛大であります」現代新興宗教のように、目的意識をもち序列をつけて「俺は何年信仰しているといってあごが上に向いている」のは歴史がくり返しくり返し誤りを犯したことを又、くり返しているのに過ぎぬ行為なのです。ひとりひとりの心の中に神仏があればそれでよいのだと思います。

人は忘れ去られていく事こそ真の姿であり一番大切な「心に神仏を持つ」ことを忘れ権威主義や物質主義に信仰者の心が奪われているのです。物質で評価したり、地位で評価したりするのが一般社会の常識でありますが、「悔いの残らぬ人生」「念の残らぬ人生」を送るようにと、「自己確立」を果たして頂きたいものです。

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