300年以上の歳月を至っても、まだまだ人気のある忠臣蔵です。
元禄15年12月14日夜半に赤穂浪士は吉良屋敷に討ち入ります。そして本懐を果します。今の暦に直しますと1703年1月30日(一白水星午年・六白金星丑月)夜半のことに成ります。
事件の発端は主君浅野内匠頭が、江戸城中の松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだことに始まります。浅野内匠頭は即日切腹させられました。
元禄14年(1701年)3月14日(旧暦)のことです。3月14日は今の暦に直しますと4月21日の日となります。(二黒土星巳年・九紫火星辰月)
浅野内匠頭 1667年生まれ(九紫火星未年)
大石内蔵助 1659年生まれ(八白土星亥年)
吉良上野介 1641年10月6日生まれ(八白土星巳年・四録木星酉月)
徳川綱吉 1646年2月23日生まれ(三碧木星戌年・五黄土星寅月)
柳沢出羽守吉保 1658年生まれ(九紫火星戌年)
元禄14年(1701年・二黒土星巳年)4月(九紫火星辰月)21日の大石内蔵助は本命八白亥年で暗剣殺(他動)を持ち苦境年にあります。吉良上野介も本命の八白が暗剣殺を持つ年であり、丁度、還暦の歳です。将軍綱吉は歳破殺を持ち月盤で五黄殺に同会しており、諸事不成就といった月の運気です。浅野内匠頭と吉良上野介の刃傷沙汰も、将軍綱吉の運気の状態と無縁ではありません。
将軍綱吉の運気の凶悪は、本人が破るか、取り巻きが破るか、目下が破るかのいずれかが生じます。この場合、運気的に暗剣殺を持つ星の本命八白の両人であるところの吉良上野介と大石内蔵助の両人に凶悪の運気が流れて負を担うことになります。
人間関係で将軍綱吉(三碧木星戌年生まれ)と柳沢吉保(九紫火星戌年生まれ)は、手の裏表に当る関係であり、同じ戌歳で九星も三碧木星(親星)と九紫火星(子星)は相生となり、将軍綱吉で栄えて開花した柳沢吉保が将軍綱吉とともに衰退して行く様は、人の運気は縁によって開花され、縁によって衰退して行くのであります。
元禄15年12月14日夜半に赤穂浪士は吉良屋敷に討ち入ります。本懐を果します。今の暦に直しますと1703年1月30日(一白水星午年・六白金星丑月)夜半のことに成ります。浅野内匠頭の刃傷より、1年9ヶ月(21ヶ月)後のことです。
赤穂浪士の行動は、吉良上野介を討つという名目であっても、幕府の御政道を正すと言う謀叛行動(むほんこうどう)であったと言えます。
本命八白土星命は運気の顕現発展期(盛運期2年目)にあり、過去の要因にて吉凶禍福の分かれる状態にあります。将軍綱吉は月盤で月破殺(事の破れる暗示)を持つ状況であります。
将軍綱吉(西方位廻座)と大石内蔵助(東方位廻座)は年盤で対中(向かい合う要素)しております。対中とは物事において引き合ったり対立したりする期(縁)であります。
そして幕府は処置に苦慮した末に荻生徂徠(おぎゅうそらい)(1666年3月21日生まれ・一白水星午年・七赤金星卯月生まれ)の大儀名分の案を選択します。
浅野内匠頭(未年生まれ)と大石内蔵助(亥年生まれ)は十二支の三合起縁です。
徳川綱吉(戌年生まれ)と柳沢出羽守吉保(戌年生まれ)と荻生徂徠(午年生まれ)は十二支の三合起縁です。
赤穂義士の処置につき、世論は忠義の武士であると賞賛し称え、幕府お抱えの学者も助命を論ずる者が多く、将軍綱吉も心を動かされる情勢でありました。そうした中で荻生徂徠やその弟子達は助命論とは異なり「そもそも浅野内匠頭が吉良上野介を殺そうとしたのであり、吉良上野介が浅野内匠頭を殺したのではない。浅野内匠頭が吉良上野介を殺そうとした為に赤穂藩は滅んだのであり、それは浅野内匠頭の行動が藩を滅亡したのであり吉良上野介ではない。すでに浅野内匠頭は罪に処せられていたのに吉良上野介を仇としたのは義でなく、大儀名分から言えば、幕府にとっては不義である」等の主旨を論じた。この論は将軍綱吉の採用するところとなり、武士の礼をもって義士の切腹に至るのであります。
日本の歴史の中で「忠臣」と言われた人物は
源義経と武蔵坊弁慶。後醍醐天皇と楠正成。豊臣秀吉と加藤清正。
徳川家康と鳥居元忠。徳川家光と大久保彦左衛門。浅野内匠頭と大石内蔵助。
徳川吉宗と大岡越前守忠相。明治天皇と乃木希典。等があげられます。
こうした「忠臣」の中で、赤穂義士の忠臣が庶民に圧倒的に人気が高いのは、日本文化歴史の中の「裁官びいき」要因と御政道に立ち向かって本懐を果して行った「いさぎよさ」が上げられる要因です。
大石内蔵助が個人の恨みに止めずに御政道を正すと言う大きな大儀で負の役割に徹したことが、忠臣の誉れとして後世に語り継がれて来たところです。
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