前篇より・・・
そして、内部抗争の乱れから半年政権が持てば良いと言われたのです。
昭和57年11月27日組閣、そして、長嶋邸から吉方位として東方位の首相官邸に移転して行きます。戦後の歴代首相は官邸に住居せず自宅から国会へと通うのが常でありましたが、佐藤栄作首相・三木武夫首相そして中曽根首相と気学実践の三名は習慣に従わずに官邸住まいをした首相です。
現在は警備上の理由から官邸住まいが習慣となって来ておりますが、平成12年に新しい官邸が建て替えられ、平成13年に新築の運びとなりましたが、施工者小渕首相が「人柱」として急死していきましたが、家相学や方位学を学ぶ者として家の建て替えや移転の恐ろしさというのはしっかり手順さえ踏んで(気学的)行なうなら大難・小難・無難でいく要因でした。
総裁選の後に中川一郎氏は自殺の道を選択します。(昭和58年1月9日自殺)。中曽根首相は首相就任後「外交の中曽根」として実践行動に挑んで行きます。
翌年の新年早々韓国・米国へ非公式ながら外遊を始めます。昭和58年5月にはサミットで米国大統領と会えるのですが、昭和58年は八白土星中宮位の年で米国(東北方位)が暗剣殺となり、5月も年盤と月盤で共に暗剣殺となる為に年の変わらない立春(2月4日までは前年となります)前の吉方位の時に合う事が大事として1月の急な訪米となります。
気学でいう「路線の始動」で路線とは最初の方位の取り方で確認することが、吉方位関係であれば後々悪い方位が廻っていても最初の状態が用(はたら)いて凶現象が押さえられるという考え方で、最初の出会う時期が重要であるという気学独特の教示です。それが「人の吉凶は動(スタート)より生ず」です。
新年早々の1月11日・12日と歴代首相として最初の韓国訪問(北西方位)であり、中曽根首相には四緑木星の吉方に当たっていたのです。そして1月17日から21日までアメリカを訪問し、レーガン大統領と同盟関係の強化を確認しました。
以後「ロン・ヤス関係」となって行く緊密状態に発展していきます。米国ワシントンは日本から艮方位(東北方位)に当たり、年盤で(九紫火星中宮位で東北方位は三碧木星廻座・月盤で(三碧木星中宮位月で東北方位は六白金星廻座)中曽根首相にとって年・月共に艮方位(東北方位)吉方位の出会いでした。
こうした方位活用(祐気実践)が約5年間の政権の中で24回続きます。24回すべて吉方位の時でない時もありましたが、事案の許す限り吉方位中心で外交を行ったのであります。
こうした実践努力は後のリクルート事件での間一髪の救いともなって行くのです。半年しか持たないであろう政権が昭和59年に至り民社党公明党一部自民党で「二階堂政権」擁立が起きたのです。
民社党春日一幸氏(本命九紫火星戌年・月命四緑木星卯月)・公明党竹入義勝(本命三碧木星丑年・月命三碧木星丑月)・自民党鈴木前首相・二階堂進(本命一白水星酉年・月命九紫火星戌月)4名主導による政変劇であります。
一方中曽根首相は自分の運気は艮方位(東北方位・鬼門)にあり最悪であることを理解しており、運気盛んなる人である金丸信幹事長(本命五黄土星寅年・月命四緑木星酉月)・竹下登元首相(本命四緑木星子年・月命八白土星寅月)の二人に解決についての「下駄を預ける」形を取ったのです。
二階堂擁立に走った4名(二階堂氏含む)の運気はそれぞれ共々に春日氏・鈴木氏・竹入氏・二階堂氏は運気衰運期にあり「徒労」に終わることがはっきり伺える訳です。一方中曽根首相が下駄を預けた両名は運気盛んなる所の東方位に金丸氏・上昇機運の竹下氏共に活発な広がりのある運気にいることが判断できます。
気学実践者の中曽根首相は方位学の実践のみならず運気運勢を知って上手に盛運の方法を用いて難題を切り抜けたと言うことであります。この時中曽根首相の後継者に竹下登氏が創政会結成へ動き出すことの始まりです。
二階堂擁立劇を不発に終わらせた金丸幹事長は竹下氏を総理総裁にする目標を持っていたことを実行に移すことになりました。この動きの中で田中角栄元首相は個別分断作戦の続く中で心労がたまり病気発生となり再起なく死去します。絶大なる力で政界を動かした田中派の終わりです。
中曽根首相の信条は「天命を知って人事を行う」という実践でありました。風見鶏といわれた人が「外交の中曽根」を前面にして国鉄の分割民営化・電々公社の分割民営化を断行した変貌は「志し」とその基盤を成す信念があっての事であり、21世紀を迎えた一人一人にこの「志し」と何に信念の基盤を求めるかは重要な事と思います。
気学にはこうした実践による実証実例が歴史の側面として伺うことが出来るのです。終わり。