陰陽祐気学とは

陰陽祐気学とは、今の気学のもととなった陰陽道の原姿を受け継ぎつつも祐気の手法を現代社会に取り入れ、活用しようとする「気学」そのものです。ここでは、その陰陽道と気学について、ご紹介させていただきたいとおもいます。

「日本書記」によれば、天武天皇は、自身がまだ大海人皇子(おおあまのみこ)であった時、天文・遁甲(とんこう)を自ら行ったとし、壬申の乱(西暦672年・中元期壬申五黄年)に際しては黒雲の拡がるのを見て陰陽五行説による占いを行ったとされています。勝利を予言するなどして活用し、即位後の天武4年(西暦675年)には、占星台を設置し、陰陽寮・外薬寮と言う役所を設置したともされ、まさに国家陰陽道の成立の時代でした。

陰陽道が伝来して来た時代は、高句麗・新羅・百済の三国時代で、当時の大陸文化の橋渡しとなった朝鮮半島の僧侶によって、奈良時代に日本に伝来しました。そして平安時代に最盛期を迎え、宮廷において広く使われことになります。その後、直接、中国(陰陽五行説)からも移入が行われ、陰陽五行説などの日本的理解と受容の形態である「日本陰陽道」は、方術実践でも名を残した滋岳川人(しげおかかわひと)が確立したといわれます。

当時の陰陽道と政治のかかわりは深く、聖徳太子の十七条憲法は推古天皇12年(西暦604年)甲子の年に発布され、これは甲子年には天命があらたまるとするものであり、条文の十七と言う数も、管子および春秋緯書の陰陽五行説に基づいているとされています。すなわち陰の極数の八と、陽の極数の九との和が「十七」になり、管子では「天道は九を持って統制し、地理は八を持って統制する」と言われています。

その後も、建築物の配置や造営にまつわる由来、華道への考え方、茶道への影響、暦・天文地理、医学の思想、戦の兵法、気質の登用、神仏事、家相・方位・易占、漢方医学の考え方、遷都、改元、その他多方面へ「陰陽五行」の思想は日本の歴史を動かし、流れの中で活用されて影響を与えて来たのであります。

ほかにも、陰陽五行に基づく物に日本文化の象徴的な能楽の舞台・歌舞伎の舞台・五重の塔・三重の塔・伊勢神宮の遷宮と建立等、数え切れない程見る事が出来ます。陰陽五行の与えた影響力はこうした日本の歴史の表裏に亘って現出しています。

しかし、陰陽道・気学といえば、安倍晴明(あべのせいめい)(西暦921年〜1005年)の活躍なくして語れません。陰陽の名人でハンサム、若くして陰陽道を確立した、とする解釈が多いですが、どうやらそれは正確さに欠けているようです。「九条殿遺誡(ゆうかい)」から天徳4年(西暦960年)40歳の時にようやく、天文生(陰陽寮の天文学生・定員10名)の修学年限を終え、天文得業生の地位にあったという記録が有力でしょう。

実際の陰陽道・気学における安倍清明の活躍期は短く、長徳元年(西暦995年)、藤原道長が天皇臣下の事実上の最高位に就くと同時に、道長の政権を支えた陰陽師としての10年間足らずといえます。当時、安倍清明は、実に76歳の高齢陰陽師だったといわれます。ただでさえ遅咲きの上に、76歳から亡くなる85歳までの10年間が活躍期でありましたが、道長の権威を支えた清明伝説は、この短い期間の間に、数々残されていったのであります。このような話は、近年も、晴明ゆかりの京都晴明神社を舞台にメディアなどにも取り上げられたので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

さて、この陰陽道が「気学」として一般に伝え知られるようになったのは、明治30年に発刊された「三元九星奥義秘傳録」に端を発し、西暦604年以来、1400余年の日本の歴史の要所要所で活用されてきた十干・十二支・九星を集大成した教義とされ現在に至るわけです。

21世紀は「寛容・共存・共生」を強く求められる時代でもあり、日本の歴史の教示が活用される世紀到来とも考えます。このような陰陽道の歴史と教義に基づき「陰陽祐気学」が現代の羅針盤となって人々の生活の一助になればと考えております。

陰陽祐気学 鑑定士 祐

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